誰かの光になりたい|翼祈(たすき)さん人生のストーリー
Webライターの翼祈(たすき)さんにご依頼いただき、人生のストーリーを取材・執筆させていただきました。
取材前、翼祈さんのことを検索すると、ご自身のこともすでに書き尽くしてらっしゃるし、他のライターさんも翼祈さんのストーリーを書かれているし……
その上で、私は何のために何を書くのか?をずいぶん考え、執筆しました。
お読みいただけると嬉しいです。
誰かの光になりたい、と願いながら生きるその途中で
「人生のストーリーを書いてほしい」
私が受けてきたそのような依頼の多くは、第三者の言葉を通して「自分」を伝え、ビジネスにつなげることを目的としていた。
今回の依頼も、プロの取材ライターとして独立を目指しているという文面から、同じような意図なのだろうと想像していた。
しかし話を聞くうちに見えてきたのは、少し違う願い。
仕事につながること以上に、読んだ人を勇気づけるような文章を望んでいたのだ。
そして取材後、彼女の言葉を反芻し、文字にしようとするうちに、こう思うようになった。
これは、誰かに届けるための文章であると同時に、彼女自身を支えるための言葉でもあるのではないか――。
当事者だからこそ、届けたい
翼祈(たすき)さんは、福岡県久留米市にある就労継続支援A型事業所「TANOSHIKA」に所属する30代のWebライターだ。
彼女は、感音性難聴や発達障害、糖尿病など、12もの疾患を抱えている。
自社メディア「AKARI」の運営にも携わりながら、自身のnoteでも日々文章を書き続け、これまでに執筆してきた記事は約4年半で2000本を超える。
医療・福祉の分野を中心に、新しい情報を届ける記事や、同じように障害や生きづらさを抱える人のインタビュー記事などを書いている。
インタビューでは、自身の障害当事者としての経験と重なる部分があるからこそ、聞ける言葉があるという。
「知らなかった」つらさが分かるから
翼祈さんは自身の経験から、情報が届かないことの恐ろしさを痛感している。
発達障害と分かった20歳の頃も、薬の副作用で糖尿病を発症した時も、必要な情報や支援にたどり着くのは簡単ではなかった。
とくに、向精神薬「ジプレキサ」をきっかけに糖尿病を発症した経緯、そして「知らなかった」ことで必要な支援を受けられなかった現実は、今でも彼女を苦しめている。
だからこそ今、彼女は書く。
自分がかつて欲しかった情報を、今度は届ける側として差し出したいのだ。
難病の新しい治療法について書いた記事をSNSで発信したとき、当事者から「希望の光が見えた。嬉しい」という言葉が届いたことがあった。
必要な人に届いたという実感は、いまも記事を書き続ける原動力になっている。
つながるために、書く
長く引きこもっていた時期、翼祈さんにとってブログを書くことは、外の世界とつながるほとんど唯一の手段だった。それが、文章を書きはじめた理由だった。
主にエンタメに関するブログを書き続け、月に50本以上更新していた。
自分が書いた記事が誰かの目に止まり、少しでも笑顔になってくれたら嬉しい。当時のそんな思いが、今の仕事にもつながっている。
しかし、書くことへの喜びだけで生きていけるわけではない。
持病のため、通院のたびに高額な医療費がかかる。でも、書くこと以外を仕事にするイメージが持てない。
「書くこと」は夢であると同時に、生きていくための切実な問題でもあるのだ。
「光になりたい」という言葉の向かう先
翼祈さんは、取材の中で何度か「生きづらいと思っている誰かの光になりたい」と口にした。
その言葉の原型は、ずっと前から彼女の中にあった。
部屋でひとりブログを書いていた頃から、自分の書いたものが誰かに届き、少しでも喜んでもらえたらと願っていた。
彼女が語る「光になりたい」「前を向く手助けをしたい」「心が軽くなればいい」という言葉は、その延長線上にある。
ただ、その願いをどう実現したいのか――翼祈さんは揺れている。
A型事業所の先にある一般就労をひとつのゴールとして語る一方で、その道がどれほど狭いかも理解している。
障害者枠でライターとして就職する道はほとんどなく、今の仕事がそのまま次につながる例も少ない。
フリーランスという選択肢もある。
けれど、収入の不安定さや医療費、生活の現実を考えると、簡単に踏み出せるものではない。
さらに、今いる場所にも違和感がある。
メディアの方針が変わり、自分が書きたいものと求められるものとのあいだにズレが生まれている。
「真っ暗闇の中を、ひたすら一筋の光に向かって走っているような感覚」と翼祈さんは表現する。
誰かの光になりたい。
その思いは確かにある。
けれど、そのために何を目指すのかという問いには、まだ明確な答えがない。
就職なのか、書籍を書くことなのか、個人的な発信なのか。どれも彼女の中に浮かんではくるものの、まだはっきりとした輪郭は見えてこない。
彼女は、光という言葉を手がかりに、自分の進む方向を探しつづけている。
欲求と才能、そして現実のあいだで
私はいま、「才能」という視点で人を見ることを学んでいる。
人は誰しも、内側から湧き出る「欲求」を持っている。
そして、その欲求を満たそうとするとき、自然と現れる行動のクセのようなものがある。これが、「才能」。
その欲求と才能が現実の中で結びつき、形になったものが「やりたいこと」なのだ。
この視点で翼祈さんを見ると、彼女の中にははっきりとした欲求がある。
誰かの光になりたい。苦しさを知っているからこそ、誰かの心を軽くしたい。
そして、それを満たすための才能もある。
調べ、書き、言葉にすること。それを続けてきた積み重ねがある。
ただ、そのふたつを結びつける「やりたいこと」が、まだ定まりきっていない。
というよりも、それを形にしようとしたときに、乗り越えなければならない条件があまりにも多いのかもしれない。
複数の疾患、体調の波、医療費、そして生活。
欲求も才能もある。それでも、それを社会の中で成立させるには、個人の努力だけでは埋めきれないものがある。
そんな前提の中で、彼女は今も、自分なりの形を探しながら生きている。
道の途中にいるということ
条件が整わないとき、多くの人は、自分の欲求を閉じ込めてしまう。
現実に合わせて、折り合いをつけながら生きていく。
それも、ひとつの選択だ。
けれど翼祈さんは、まだ「光になりたい」という欲求を手放していない。
揺れながらも、その言葉を何度も口にしていた。
彼女はいま、道の途中にいる。
どんな形になるのかは、まだわからない。
けれど、自分の欲求を手放さずに持ち続けること自体が、誰かにとっての光になるのかもしれない。
そう、この文章を書きながら思った。